昭和46年10月11日 朝の御理解



 御理解 第72節
 「人間を軽う見な、軽く見たら、おかげはなし。」

 信心の稽古をさせて頂く、例えばこの様な御教えを頂きますと、信心の稽古はどこらでもあると言う事が分かります、人間関係の難しさを皆が申します、成程難しいけども人間を軽う見るところから、私は問題が起こるのじゃないかと思うですね、人間を軽く見たらおかげはなしと、それは例えば丁重に扱うとか、奇麗な言葉で呼び合うとかまあそう言う事も有りましょうけれども、私は仲良くすることだと思いますね。
 例えば仕事の上での、自分の部下と申しますか、言わば目下の人に対してあなたとかこなたとか言う訳にはいかない、おい君とかいう風に呼ぶこともありましょう。けれどもその問題はそういう事ではなくて、その人の神性と申しますか、人間は万物の霊長であるからという、そのところを頂いて行く所から、人間関係が円滑にいくですから、それは仲良うして行くと言う事ですから、見下げると言う事ではない。
 これでは成程おかげ頂かれまいと思います、いわゆる見下げると言う例えば見下げ果てた、教祖の金光大神の中にもありますね。見限りた女というような言葉を使っておられますね、いわゆる見下げ果てた女だと。ですから矢張り本当にどうにも出来ないやっぱ人があります、いうなら性根が腐ってると言う様な場合があります。けどもそこんところをそういう時に、私共は矢張り神心を高めておらなければならんと思う、人間を軽う見らんで済むために、私共はこれは人間だけの事ではないとおもいますね。
 例えば事柄を軽く見たらおかげはなしとも言えると思うです、例えば神様の氏子としていわゆる御氏子としていわゆる御氏子として人間をその神性を見る、又事柄での場合でもいわゆるここでは、それを御事柄として頂いて行くどんな事があってもそれを軽う見ない。神様の御働きとしてそれを頂いて行く、例えば私自身、皆さん自身が、人に軽うあしらわれるときの気分を思うてみなけりゃいけんと思う。ほんとに自分くらいの者を丁重に扱うて下さる、矢張り有難いです、嬉しいです。
 そんなら私共もそれを丁重にいわゆるとり扱わせて頂くと言う事、そこから私は仲良うして行く事が出来る、人間関係のむつかしさもそこから、段々おかげを頂いて行くことが出来るようになるのだと思います。軽う見たらおかげはなし。こう断言しておられる。家で自分が使っておるんだと言う様な、成程金で給料払って使っておるのに、間違いはないのですけれども、矢張りその人の扱い方が、唯金で使っておると言う様な考え方ではいけない、矢張り人間神に氏子として扱わせてもらう。
 又は思わせてもらうと言う事にならんと、軽う見ることになる。教祖様の最近、金光大神御理解といういのが、新たに本部から送って参りました。その御理解の中に「家内一統仲良くして信心せよ、彼岸餅などこしらえた時に、子供がくれいくれい言うのを神様に上げん先にというて、頭を叩いたりしては神は喜ばん。先に子供にやって喜ばしておいて、それから神に上げて来れれば神は喜ぶ、他所へ行っても台所で子供の頭を叩いて泣かせたりしては、御馳走をだしてくれても快うない」という。
だからここんところはいわゆる子供です、おれの子供だと思う所に頭を叩く事になって来る。傍で子供を見ておって、その饅頭をくれと言う、これもお神様に上げにゃんけん出来んというて怒るよりかです。却ってそれを与えて子供を喜ばして、あとに神様にお供えしてくれた方が神は喜ぶとこういうておられる。まあ私共が頂いておる神様とはそういうお方なのである。だからそういうところから、神様を軽う見る様な事であってはならない、この辺のところは難しい。
 自分の使用人だとか、自分の子供というところから、いわゆる頭を叩くと言う様な事をしては神様がお喜びなされないという。人間同志が仲良うすると言う事は親神様としては、一番有難いことであろうとこう思いますね。ですから仲良うして行くと言う事を心がけさせてもらわなければならない、ただ一部の人とだけ仲良いというのがあります。例えばエリート意識とでも申しますか、自分たちとは部類が違うような思い方をしている。それではおかげにならん。
 本当に神様の氏子としての見方でないと、どこに御粗末御無礼があって、おかげ落とすやら分らん。そういう矢張り気分があり、なおそこで私達が神様のいわば氏子としての、見方と同時に、私共がいよいよ、神心を高めていくという、おかげを頂いてまいりまする頃から、いうなら水も漏らさぬ人間関係と言う様なものが、でてくるのだと思い頂ける。確かに神様にほんとに喜んで頂ける人は、人間を軽う見ない。
 これは自分自身を分ってるからで、あらましより、自分がどれ程そんなに良くもないのに、偉そうにしておって自分というものがです。どんなに見苦しいものであるかと、いう様な事が分って来る。やはり人間をどの様な人の場合であっても、それをその人の言うなら、縋る事とても言うかを発見する。発見し得ないに致しましても、どこに神様の御都合があるやら分らない。これは事柄の場合でも同じ事。どこにご都合があるやら分らないから、その事柄を御の字つけて押し戴くような思いが必要である。
 昔光明皇后と言う大変情け深い皇后様がおられた、世の中の雑感なひ都たちを集めて、特に病人を集めて千人風呂といわれるその大きな風呂を造って、そこでいろいろ介抱されたり、治療に当られたと言う事です、何と言うても私は人間ほど尊いものはないと思う、その尊い人間を大事にする、その事が神様の御心に適わん筈がない、或る時にもうそれこそ二目と見られんような、身体が腐れかかっとる様な人が、救いを求めてやって来た。他の人達はそういうものをここに入れてはというたけれども。
 そういう病人を心良う入れられただけでなくて、それこそ奥のウミが流れる様なその身体に、自分の口を寄せて奥ウミを吸い取ってあげられたという話があります。いわゆる仏心と言うか神心というか、にならなければとても出来る事ではない、だから私ども神心が段々強くなってまいりますと、例えば人はどう言う風に言うてもです、あれは録な奴じゃないと言うてもです、こちらの神心が段々強くなってまいりますと、それをやはり軽く見らんで済むおかげがうけられる。
 自分の周囲にあれはつまらん奴だと言うものが多いなら、多い程自分の信心が出来とらんと思わにゃいかん、どの人もこの人も矢張り優れたものを持っておる、本当に丁重にさして貰わねば居られない、様なものを頂いて行くところに言うなら、信心のバロメーターが有ると言うても良か位、自分自身の心が矢張り神心を以てするところから、人を軽く見らんで済むおかげを頂かれる、ですから人間その自分自身が軽く見たら気持ちが悪い、自分自身を軽蔑されたら嫌いである。
 なら人をも丁重にすると言う様なところから大事にせねばならんと言う、それから自分自身がわかる、そこから人をまた大事にすると言う事になる、ああ緑な奴じゃないと言う見方をする時には、本当に自分自身も緑な奴じゃないと悟らしてもらわにゃいけん、あの人もよい人この人も良い人、皆が観音様や菩薩様に見える様になって来ると言う事が、私は愈々尊い、人を軽く見んで済む事だと思う。
 その光明皇后の場合でもそうであった、もう人は側にも寄せたくない人をかえって大事にして上げられたと、ところがその人が観音様の化身であったと。私どもの場合は本当に観音様の化身と言うか菩薩様の化身とそれを私どもは気づかずに軽く見ておる事はないだろうか、これは本当に考えさせて頂かねばならん事と思いますね、ですから信心者と信心しない者の、溝と言った様なものが段々深まって行く。
 もう信心せんもんばかりと言うて、だから信心をしなさらんからこそ、例えば信心しとってもこの程度であるから、信心もしなさらんから、教えも頂きなさらんから、それはそうでもあろうと言う見方ですね、そう言う風に見て参りますと、エリート意識と言うものは無くなって来ると、神様に喜んで頂くのと同時に矢張り私どもおかげを頂かねばならない、それも水ももらさぬ程しのおかげを頂きたい、ために一つ事柄を軽く見な、軽く見たらおかげはなしと見させて貰うて、すべてに御の字をつけて頂く。
 頂き方にならして貰おう、人を軽く見な、軽く見たらおかげはなしと仰るから、御氏子としての見方、頂き方、または万物の霊長としての見方、をさせて頂けれる信心を頂きたい。そこから私は今までね、思いもかけなかったおかげが展開して来る様に思う、ハハアこう言うところからおかげはなしと仰る、おかげが頂けとらんなと言う事が分って来る様になるとおもう。
 自分が軽く見られるのか嫌ならば、人も矢張り軽く見てはならん、そう言う考え方から段々一つ稽古させて頂いて、いよいよ自分の信心を進めて行き高めて行き、いわゆる自分の心が神心を以て物事に接し人に接っすると、ところから押し頂く心とでも申しましょうか、が生まれて来る、そこに私どもが願っておる、おかげがひそんでおるやもしれん、今日はそう言う意味でです、一つ徹底して、人を軽く見な、軽く見たらおかげは無しと仰るのですから、そう言う見方の出来れるおかげ、そして自分の周囲にです。
 皆神様の御氏子としての見方、いうなら自分の周囲にあの人も良い人、あの人も親切な人と言う人で一杯うずもれる程しの、おかげを頂けた時に私は助かっておると言えるのじゃなかろうか、もうあの人は冷たい人、鬼のような人じゃ、邪険な人じゃと言う人の中に在ると言う事は、これはもうすでに地獄です、自分の周囲に本当に良い人、仏様の様な人が溢れて来る様なおかげを頂く事が私は信心だと言う風におもう。
 これは自分の子供でも矢張り例えば言葉でも、この阿呆とか馬鹿とか又はわからんことを言うと言って叩いたりする事はです、神は喜ばんと仰る、そこには神様より先に立てて行く様な生き方こそ、神は喜ぶと仰っとられます、そう言う様様な生き方を以てです、人間を軽く見らんどころではない、人間を尊重して行けれる、おかげを頂きたい、そう言う気持ちになるとですね。
 確かに皆がですね自分より優れておられる者を発見する様ですね それに自分が偉そうにしておると言う様な、やはり高慢な態度やらはおかげなしと言う事になるでしょう、おかげは受けておっても目が粗い、肝心要のところが抜けてしまう、そう言う生き方になる時にですね、いわゆる金光様の実意丁寧神信心と言う、信心ぶりと言うものがね、次第に身について来ると思うです。
 人間を軽く見るな軽く見たらおかげはなし、とだからどう言う自分が生き方にならして頂いたら人間を軽く見らんで済むかと、言う事に焦点を置いて考えてもお徳が受けられると言う事がわかります、矢張りそこに焦点を置いて信心の稽古をさせて貰うてもよい位です、漠然とした教えを知っておると言う事でわなくてです、どうすれば人間を丁重に扱う事ができるか、尊いとしてそれに接することが出来るかとそこんところを、共励し合うただけでも、素晴らしい信心の共励が出来ると思うです。
 此れは実際それに取り組んで見ると、本当にお粗末御無礼なもう此処にも軽く見ておった、ここにも神様のお嫌いになる様な、見方をしておったと言う事が沢山出て来りゃせんかと思うです、人間を軽く見るな、軽く見たらおかげはなし、人間を尊重して頂けば、軽く見るどころかもうそれと思っていけば、おかげはあると言うことも言える訳です、ですから此処だけに焦点を置いても良い訳です、そしていろいろ分からせられる事、本当にそうだ自分が軽く見られた時の気分の悪さ、腹だたしさ。
 これは人を軽く見たらいかんとわかる事もよかろう、いよいよ尊重して見るために、いよいよ自分の信心を深めて、自分の神心をもっともっと深くして行かねばならない、神心が軽薄である事を悟らして頂いて、いよいよ自分の神心を強くして行くことに、焦点を置く信心をさして頂かねばならんと言う風にです、そこに焦点をおいたら未だ未だ、いろいろそこのところが深くわからして頂く事だとおもう、信心を深める。信心を広く頂くと言う様な意味でですね。
 いわゆる人を軽く見らん、どう言う信心にならして頂いたら、人を軽く見んで済むかと、言う事を思い続けただけでも、おかげが受けられる道ですね、又、お徳が受けられる道なんです、今日は徹底ここの辺のところをですね、私が申しました以外のこと、未だそれぞれに軽く見んで済む、尊重して頂ける道を、言わば信心が信心を教えてくれる、おかげを頂いて行きたい、人を神様の様に扱うならまた相手の人も神様の様に扱って頂ける、おかげを頂いて行きたいものですね。
   どうぞ。